生い立ちと父のこと

 

 私は昭和19年11月28日に東京都立駒込病院で生まれました。

近くに住んでいた祖母が、母の初めてのお産に付き添ってくれていましたが、その頃は第二次大戦の最後の方で、その日も東京で大空襲があり、生まれたばかりの私を抱え、みんなで病院の地下壕に避難したそうです。

 

 母には姉や妹が大勢いたため、家に残してきた他の娘たちのことを案じながら、生まれたばかりの孫と一緒に防空壕に逃げ込んだ祖母は、この子はなんて可哀そうに、今生まれたばかりなのに、これがもう最後なのかと思いつつ、爆音が聞こえる私の上に覆いかぶさり守ってくれたと、のちに母から聞きました。

 祖母はその後も私のことをとても可愛がってくれました。

 

 今、パレスチナの空爆のニュースや、世界のあちこちで戦争が起きているのを見聞きするにつけ、戦争の最中に生まれた私が、幸運にも生かされ結婚し、子どもたちや孫たちに囲まれる日々を送れることを思い、命があることの有難さや、平和の尊さを強く感じずにはいられません。

 

 平成になって間もなく、厚生省が、ニューギニアの戦死者の墓参団を結成し、参加者を募集した時、私の母がそれに参加しました。

 母の兄がニューギニアで戦死しており、慰霊に訪れることが母のかねてからの念願だったのです。

 

 現地で小型機に乗り換え、それぞれのご家族の戦死した場所に向かうのですが、その場所の上空に差し掛かると、急に涙があふれ出てきたそうです。

 まだその場所に亡くなった方々の魂があるような不思議な気持ちになり、国のために亡くなった大勢の方たちの気持ちを思い、ただただ涙が止まらなかったそうです。

 

 とても親孝行で、優秀で、上官でありながら若くして亡くなった母の兄が戦地に赴く直前、「国のため、大切な家族を守るために行ってくる。早く結婚して幸せになれよ。」と優しく言ってくれた言葉が今でも忘れられない。と母はよく私達に話してくれました。

 

 父は、東京、田端の大地主の三男として生まれ、とても真面目で実直な人柄に加えて、その頃にしては珍しく立派な体格であったため、戦争中は近衛兵に選ばれたそうです。

 祖父母は、大変名誉なことだと喜んだと聞いたことがあります。

 その後、南東ベトナム方面に出征しました。近衛が南方まで行くほど当時の選挙区は厳しくなっていたのです。

 

 よほどの体験をしたせいでしょうか、父は子供だった私達に戦争の話をほとんどしませんでした。

 東京で生まれ育った父が馬の世話をする時、慣れない手つきでこわごわ世話をするので、それを見抜いた馬が馬鹿にして足蹴りをして、父を困らせたそうで、農家の出身だった馬の扱いに慣れた人にはとても良くなつき、見事にコミュニケーションをとっていたと、そんな話をしてくれた位でした。

 

 母に聞いたところによると、戦争で父は、出征先の南方で爆風に遭い、歯をすべて失ったそうです。わずかに残った歯もぐらぐらだったため、麻酔も薬も何もなかった場所で、すべてペンチで抜かれたそうです。

 それでも一命をとりとめ、負傷兵として帰国することができました。

 

 父の部隊はその後どうなったか分かりませんが,歯は失ったが、お蔭で奇跡的に帰国でき、命をいただくことが出来た、本当に有難いことだと、よく話していたそうです。

 大柄でハンサムな父でしたが、そんなわけで若くして総入れ歯でした。でもそれを毎日当たり前のように丁寧に手入れし、愚痴めいたことを言っているのを見たことはありませんでした。

 

 命があり、家族がいる。それだけで十分有難いことだと、いつも言っていた父は、69歳で亡くなるまで、毎日かかさず神仏に手を合わせ、あちこちの神社参りをしては、ニコニコ穏やかに感謝の日々を送っていました。

 子煩悩で家族をこよなく愛する家庭的な人で、盆栽や旅行、絵を描くのが趣味でした。悲惨な戦争を潜り抜けた父の、そんな優しい姿が時折懐かしく思い出されます。