仙台での結婚生活のこと

 

 40年前、結婚して初めて仙台に行きました。

 

 杜の都と言われた街は、こじんまりとしていて緑が多く、とても美しい街でした。

 駅前には朝市と呼ばれる商店街があり、その日に獲れた魚や、野菜、果物、山菜、日用品までが所狭しと並んでいました。

 どれもとても新鮮で、安くて、目を見張るものばかりでした。

 見るもの、聞くもの、食べるもの、私には驚くことばかりでした。

 

 言葉も、一口に東北弁と言っても、本当の仙台弁はとても丁寧な、やさしい言葉でした。それでも私はなかなか馴染めず、使いこなすのに何年もかかりました。

 

 始めは主人の転勤で、ほんの2~3年のつもりだったのですが、ちょうど主人の実家が仙台だった事もあり、予想をはるかに超えて18年暮らすことになりました。

 

 すでにその当時でさえ、結婚式の時、「若い二人はご両親と同居されるそうで、近頃仙台でも珍しいことです。」などと言われたのでした。

 何も知らなかった私は、知らない土地で、優しい両親と同居できることは有難いことだと思っていました。

 

 ところが実際には、仙台の旧家に生まれ育った義母と、東京で、核家族でのんびりと育った私との間には、大きな違いが数多くあったのでした。

 

 義父は、私立の中学と高校の英語教師をしていたものですから、家には親御さんに頼まれて預かっていた学生さんがいて、身の回りのことや、食事のお世話もしていました。

 日曜日には補習を頼まれて、生徒さんが訪れたり、ご父兄の教育相談にのってあげたりと、生徒さんの面倒をそれはよくみていました。

 また、問題を起こした生徒さんを何とか正しい道に導くためによく奔走していて、いつも若い人の将来のために心を砕いていた姿を思い出します。

 

 熱心なクリスチャンだった義父は、「優秀な生徒は一人でもやっていける。間違った道に行ってしまったり、勉強についていけない生徒にこそ手を貸して、一緒に乗り越えてあげたいんだ。」と話していました。

 翌朝の朝礼で読む原稿を夜遅くまでかかって書き、身体を心配した義母が、もうそのくらいにして休んだら、と声をかけても、納得が行くまで何度も何度も手直しをしていたそうです。

 

「横山先生は、学校でも家でも、裃(かみしも)を着ているような人だ。」と言われたほど、折り目正しくまじめで、優しい人柄でした。

 

結婚して間もなく私がホームシックになり、寂しそうにしていたときは、聖書の中の一文を例にとり、

「文子さん、野の鳥を見てごらんなさい。何も思い煩うことはないのですよ。」

と優しく声をかけてくださいました。

 

 穏やかな性格の義父に代わり、義母は言わなくてはならないことを周りの人達にはっきり伝え、あらゆる面で義父をサポートしていました。

 

 しかしまだ若かった私は、そのことがよく分からず、優しかった義父に比べて、厳しかった義母に、当時なかなか馴染めませんでした。

 

 仙台の夏は短く、旧盆の8月15日が過ぎる頃になると、もう秋風が立ち、冬は東京と比べるととても長く、寒く感じられました。

 広瀬川のほとりにあった家は、夜静かになると川のせせらぎの音が聞こえ、それは私をとても悲しい気持ちにさせたのでした。

 

 庭にはキジが飛んできて、ケンケンと鳴いたり、夏にはカジカの声がしたり、目の前の川には鮎が泳いでいたりと、今思うと本当に素晴らしい環境だったのですが、当時の私には、その価値も良さも全く感じることが出来ず、美しい自然さえもあまり目に入らず、ただ、早く東京に帰りたいと、毎日そのことばかり考えていました。

 

 そして、私が嫁いでから半年も経たないうちに、優しかった義父は病のため、59歳で亡くなってしまったのです。

 

 突然の義父の死に、義母は深く悲しみました。

 両親は仲のいい夫婦というだけではなく、親を早く亡くした義母にとって義父は親のような存在でもあり、心から尊敬できる人でもあったのですから、その嘆きようは、あまりにも気の毒なものでした。

 夫を支え、いつも強く明るかった義母が、うつろな表情になり、数年もの間、味覚も視覚もなく、どうやって暮らしたか良く覚えていないというほどだったそうです。

 若い私にも、その悲しみは十分に伝わりました。

 

 そして、まだ若かった私の夫がこの家の主となり、私が主婦となって義母を支えるという、これまでとは逆の暮らしになったのでした。

 

 私が腎臓をこわし、操体法に出会い、心と身体のつながりや言葉の持つ力、感謝の心などに気づくまで、私にとってはとてもつらい苦労の日々が始まりました。

 

 主人の叔母が近くに住んでいましたが、いつも優しく励ましてくださり、困ったことがあったらいつでもおいでと、声をかけてくださいました。よくお邪魔をし、仙台の郷土料理をご馳走になりました。

 若い私が慣れない土地で困っているのを見て、助けてくださったことに今も感謝しています。

 

 100年以上たった家を取り壊し、新築して移り住み、5年ほど経ったころ、主人は東京の本社に転勤になりました。

 私も18年仙台に暮らし、自宅から10分くらいの所に土地を買い、主人と週末菜園を始めて5年たち、ほとんどの野菜も作れるようになってきた頃でした。

 その野菜をつかった料理教室を自宅で開き、大勢の皆さんと楽しんでいました。

 

 仙台の街は、何でもそろう便利さに加え、車で30分も走れば、海、山、温泉、果樹園など自然も近くにあり、暮らす環境としては理想的な所でした。

 その仙台で生まれ、長年慣れ親しんできた義母にどう切り出したものか。もし一人で残りたいと言われたらどうするか。高校に入ったばかりの娘や、中学生の息子の進学はどうするか。いざ転勤と言っても、今度は難問がいっぱいありました。

 

 ところが、意外なことに、この転勤を一番喜んでくれたのは義母だったのです。

 若い頃、東京の大学で国文学を学ぶことが夢だった義母は、姉妹が皆東京に嫁いでしまったため、一人くらい仙台に残って欲しいと言われ、仕方なく夢をあきらめたそうです。その頃自分の姉妹や娘の住んでいる東京行きを誰より喜んでくれたのでした。

 

 私にとって義母とは、嫁ぎ先の主のような存在であったのですが、実は義母も他家から嫁に来て嫁ぎ先の人たちと同居し、苦労してきた私の先輩だったのだという事に気づきました。