子供時代と母のこと
私が生まれて間もなく東京大空襲があり、田端に住んでいた両親は私を抱え、近くの防空壕に避難しましたが、近所の人々はほとんど田舎に疎開してしまっていたため、気が付くと、そこにいたのは私達家族だけでした。
両親そろって代々東京の家に育ったため、田舎を持っていませんでしたが、さすがにこれ以上ここにいるのは危険だと感じ、母の実家のつてを頼って長野に疎開しました。
汽車は超満員だったため、私を背負うとつぶされてしまうと思った母は、私を前にくくり、背中に重い荷物をしょって、約8時間の長旅に耐えました。
まだ生後3か月あまりの赤ちゃんだった私は、その間おっぱいを飲むことも、おむつを替えてもらうことも出来なかったそうですが、一度も泣かず、なんとすやすやと寝ていたそうです。
そんな小さな赤ちゃんにも、親が必死で、ただならぬ空気の中にいたことを察していたのだろうと、母はその時の話を何度も私にしてくれたのでした。
長野では、卵や米を手に入れるために母は農家で麦踏みや畑仕事、味噌の仕込みなどを手伝い、今までした事のなかった様々な体験をしました。
その間私は母の背中にずっと負ぶわれていました。
のちに、都会育ちの私が庭で野菜を作り、味噌作りや漬物作りを楽しむようになったのは、赤ちゃんの時に母の背中で見ていたものが原点で、まさに三つ子の魂なのでしょうねと、よく母に言われました。
私の子どもの頃、文京区界隈は、狭い路地に平屋の家が並び、それぞれ生垣で囲われたとても静かで長閑なところでした。今はたくさんの高いマンションやビルが建っていて当時の面影がほとんどないのは寂しい気がします。
父の実家は大所帯で東京の田舎暮らしといった家で、正月、お彼岸、お盆、秋祭り、お月見、餅つきなどそのたびに一族が本家に集まり大賑わいでした。
また毎月の祖父母の月命日には、一族で、近くにあるお寺にお墓参りをするのが恒例で、静かなみんなでぞろぞろ、のんびり歩いていたことを思いだします。
幼稚園から帰ると、料理上手な母はよくカスタードクリームを作ってくれました。それが記憶している初めての洋菓子の味で、私の大好物でした。
まだ家で鶏を飼ってその卵を食べる、という時代でしたから、なんとも言えないあこがれの洋食の味がしたのでしょう。
今でもカスタードクリームを作ると懐かしいあの時の味を思い出すのですが、感動とともに食べていた母の味を越えることはできません。きっとそれだけはもう無理なのだと思っています。
小学校の三年生頃、学校で飴の作り方を習いました。砂糖と少量の水を煮詰めて、お酢を数滴垂らし、お皿に流し固めるといった程度のものでしたが、お祭りで売っているべっ甲飴が自分で作れるなんて驚きです。
早速家に帰り、アルミのお鍋で作り、大感激したのを覚えています。記憶にはないのですが、作っては片付けずに使いっぱなしだったので、いくつものお鍋に穴を開け、母は困っていたと、あとから聞かされました。
それでも叱られることもなく、「文子は本当に料理を作るのが好きなのね。」といつも楽しそうに話してくれた母の姿が懐かしく目に浮かびます。
そんな母のお蔭で私は今までずっとお料理だけでなくパンやケーキを作るのが大好きで、毎日何かしら作っては喜んでいるのは、やはり楽しかった幼児体験のせいなのかもしれません。
私のカスタードクリームの作り方をご紹介しましょう。
卵(全卵) 3個
砂糖 120g
薄力粉 50g
牛乳 400㏄
バター 20g
バニラビーンズ 1・2本分
ブランデー 大さじ1
ボールに卵を溶きほぐし、砂糖と薄力粉を合わせてふるったものを加える。鍋にバニラを加えた牛乳を火にかけ、沸騰直前に卵のボールに入れ、すぐに混ぜる。シノワで濾して牛乳の鍋に戻し入れ、強めの中火で焦げ付かないようにすばやく泡だて器で混ぜる。ヘラに持ち替え、ふつふつと穴があいたら火から下ろし、バターを加える。粗熱がとれたらブランデーを加える。
ふつうは卵黄だけで作りますが、全卵を使って作るとあっさりとしている上バランスがよいと思います。お試しください。