女学校で学んだこと

 

 私の父の実家は、家から歩いて5分、母の実家もそこから2,3分という場所で、近所には伯父伯母の一家があり、小学校から帰ると私と妹はよく近くの母の実家に遊びに行きました。大家族で賑やかでした。

 夕方母が迎えに来てくれるまで、従姉妹たちとよく遊んでいました。

 家では三歳年下の妹と、父に買ってもらったおかっぱ頭のキューピーさんを子どもにして、茣蓙の上でよくおままごと遊びをしていました。

 近くの幼稚園にも行ったのですが、その頃私は体が弱く、たまに行っては百日咳や、はしか、水ぼうそうなどをもらって休む、という具合でしたので、病気をもらいに行っているようなものだとよく母はこぼしていました。

 

 小学校に行っても、ぼうっとして大人しく、目立たない子どもだったそうです。

 給食の時間が苦手で、特に脱脂粉乳(スキムミルク)を温めたものは、焦げ臭いにおいがしてなかなか飲めませんでした。全部食べ終わった子供たちは運動場で遊んでいるのですが、ぐずぐずしているうちに時間切れ。おかずもよく残していましたから、コッペパンにはさんで、わら半紙にくるみ、持ち帰ることがしょっちゅうでした。

 忘れ物が多く、家に取りに帰ったり、母に届けてもらったりということがよくありましたが、私はあまり気にせずいつものんびりと構えていたのだそうです。

 

 そんな私を母は心配し、この子は公立へ行って受験勉強をし、生き抜いていくのはとても無理だろうということで、中高大学まで一貫教育の私立を探してくれました。

 料理が大好きで、手芸や編み物など家庭的なこと全般が大好きだった私を、家政科の伝統のある女学校へ通わせてくれました。

 私が中学に入学した頃は、創立者である大妻コタカ先生がまだご存命中でしたので、朝礼のお話は大妻先生がされていました。

 昭和39年に出版された礼儀作法の本の中から一部ご紹介します。

 

『礼儀作法というと誰もが一様に顔をしかめます。ことに若い世代の方々は、何か古代の遺物でも見るように思い、堅苦しいことのように感じるようですが、本来は決してそのようなものではありません。

 日常の社会生活の必要から自然に生まれたものなのです。

 早い話が、道路も銘々が勝手に歩き回ったからかえって歩きにくく、事故も起こりやすいのではないでしょうか。

 そこにお互いの約束を設ければ、みんなが気持ちよく安心して歩けます。これが礼儀作法というものです。

 私は長い間この世に暮らし、女子教育に携わってきまして、お互いの生活を、社会を、平和に美しく行くためには礼儀作法がどのように必要かということを、人にも自分にも言い聞かせてまいりましたが、特に近頃の様に世の中が騒がしくなり、無軌道な行いや考えが多くなってまいりますと、一層礼儀作法の心得を痛感せずには居られません。』

 

『手まめ、足まめはよいが、口まめだけはつつしめ。』

 

『女は女らしく、学生は学生らしく、母親は母親らしくあれ。』

 

 などなど、良妻賢母を育てるのを目的とした学校でした。私もこれらの教えにたくさんの影響を受けました。

 

 九段の三番町にあった学校は、皇居の千鳥ヶ淵に近く、桜の頃になると、音楽や美術の時間にはみんなで出かけ、土手の上で歌を歌ったり、絵を画いたり、お弁当を食べたりと、夢のような学校生活でした。

 担任の先生は大らかで、子どもたちを優しく包み込んで下さる方で、よくご自宅にも遊びに行かせていただきました。

 おっとりとして大人しかった私の性格は、次第に明るく」、活発になっていきました。

 厳しいしつけと同時に、のびのびと楽しい毎日を送らせていただいたこの学校には今でもとても感謝しています。